過去に発生した地震(8) 江戸時代(5)

過去に発生した地震(8) 『江戸時代(5)』 自然災害に備えるブログ Ready Japan 地震
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この記事は下記の方にお勧めです。

・過去に発生した地震について知りたい方
・歴史に興味がある方

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はじめに

太古から地震が発生していたことを疑う人はいないのではないでしょうか。地層を調べることにより、断層や津波の痕跡から、おおよその地震発生の年代を知ることがあります。

しかし、いつ、どこで発生したのかをある程度の確度で知ることができるのは文字情報、つまり、古文書が現れてからのことです。日本では、西暦416年(允恭5年)の遠飛鳥宮とおつあすかのみや付近で発生した地震が文字情報のある最古の地震と言われています。

この記事では、江戸時代後期(1801年〜1850年)に日本で発生した主な地震についてまとめます。

江戸時代(5)

上総の地震(1801年)

西暦1801年5月27日(享和元年4月15日)に上総(千葉県中部)で発生した地震です。久留里城の塀などが破損し、民家も倒壊しました。地震の規模はM6.5と推定されています。

畿内・名古屋の地震(1802年)

西暦1802年11月18日(享和2年10月23日)に畿内や名古屋に被害をもたらした地震です。奈良の春日大社や西大寺の石灯籠が倒れ、名古屋では本町御門西の土居の松が倒れ、高壁が崩れました。震央地域は東海で、地震の規模はM6.5〜M7.0と推定されています。

享和の佐渡小木地震(1802年)

西暦1802年12月9日(享和2年11月15日)に佐渡に被害をもたらした地震です。佐渡3郡全体で死者が19人、全壊家屋が1150棟、家屋の焼失が328棟ありました。また、島の西南海岸が最大2m強隆起しました。地震の規模はM6.5〜M7.0と推定されています。

文化の象潟きさかた地震(1804年)

西暦1804年7月10日(文化元年6月4日)に羽前や羽後に被害をもたらした地震です。この地震により秋田・山形県沿岸が25kmにわたって1~2mほど隆起し、象潟湖の大部分が陸地化しました。 象潟湖は松尾芭蕉が「東の松島、西の象潟」と表現するほどの景勝地でしたが、現在は地盤の隆起により田園の中にかつての小島が残る景観となっています。被害は全体で家屋の倒壊が5千軒以上で死者が300人以上でした。象潟や酒田では津波の記録もあります。地震の規模はM7.0と推定されています。

文化の男鹿半島地震(1810年)

西暦1810年9月25日(文化7年8月27日)に出羽に被害をもたらした地震です。男鹿半島の東半分では5月頃より鳴動があり、7月中旬から地震が頻発し、27日に大地震が発生しました。男鹿半島の東半分を中心に被害があり、死者は57人とも163人とも言われており、116人が負傷しました。また、家屋や寺全壊が1003軒、同半壊が400軒、同大破が387軒でした。地震の規模はM6.5と推定されています。

神奈川の地震(1812年)

西暦1812年12月7日(文化9年11月4日)に武蔵や相模に被害をもたらした地震です。神奈川宿では本陣をはじめ家の過半数が倒れ、かなり死者がありました。神奈川宿の中にある東光寺という寺の記録には、この地震で全壊したとあります。保土ヶ谷宿では本陣が1軒、脇本陣が3軒、一般の旅宿が92軒倒れ、震度6強だったと推測されています。戸塚宿では元町橋の20軒くらいが倒壊したという記録があり、戸塚宿の中にある宝蔵院からは、この地震で寺が全壊したという記録もあります。

また、川崎宿では2軒が倒壊、多摩川の近くでは45軒が倒壊しています。最戸村(現在の横浜市港南区最戸)では22軒の家が倒壊したという記録があり、村のほぼ全ての家屋が倒壊しており、震度6強から震度7の揺れだったと推定されています。

さらに、江戸や木更津でも被害がありました。地震の規模はM6.3と推定されています。

文政近江の地震(1819年)

西暦1819年8月2日(文政2年6月12日)に伊勢、美濃、近江に被害をもたらした地震です。近江国(滋賀県)を震源とする内陸の地震で、フィリピン海プレート内部で発生したスラブ内地震と推定されています。琵琶湖周辺と西濃平野に震度6以上の揺れと被害がありました。近江八幡では家屋の倒壊が82軒で死者が5人あり、木曽川下流では香取(多度町)で40軒が全滅し、金廻では海寿寺が倒壊し圧死が70人でした。名古屋、犬山、四日市、京都などのほか、金沢、敦賀、出石、大和郡山などでも被害がありました。地震の規模はM7.3と推定されています。

文政の岩代地震(1821年)

西暦1821年12月13日(文政4年11月19日)に会津に被害をもたらした地震です。大沼郡大石組(金山町川口付近)の狭い範囲に強震があり、130軒が壊れ、大小破が300軒余で、死者もありました。上下動が強く、山崩れもありました。翌年1月4日に再び強い揺れがありました。地震の規模はM5.5〜M6.0と推定されています。

陸中岩手山の群発地震(1823年)

西暦1823年9月29日(文政6年8月25日)に岩手山北東山麓部(八幡平市旧西根町および松尾村周辺)で発生した群発地震です。激しい地震活動は文政6年8月25日~9月初旬で、翌年の3月頃まで鳴動や地震が継続しました。松尾村東部(野駄~荒木田)から七時雨山山麓にかけて被害があり、死者が1人、潰家が20軒、家屋の大破が65件でした(「江戸御用人所日記」)。七時雨山西方(滝不動)での山崩れにより死者が69人で行方不明が4人でした(「利敬公千代鏡」)。この群発地震と岩手山の火山活動との直接的な関係は不明です。地震の規模はM5.75〜M6.0と推定されています。

越後三条地震(1828年)

西暦1828年12月18日(文政11年11月12日)に越後に被害をもたらした地震です。信濃川に沿った長さ25kmに及ぶ楕円形の地域に被害があり、三条、燕、見附今町、与板などの家屋は殆ど全壊し、被災地全般では全壊が12859軒、半壊が8275 軒、焼失が1204 軒、死者が1559 人、けが人が2666人、堤防の決壊が41913間という大きな被害でした。また、山崩れや、地割れから水や砂が噴出するなどの液状化現象も記録されています。越後平野を震源とし、地震の規模はM6.9と推定されています。

京都地震(1830年)

西暦1830年8月19日(文政13年7月2日)に京都とその隣国に被害をもたらした地震です。洛中洛外の土蔵はほとんど被害を受けましたが、民家の倒壊ほとんどなく、御所や二条城などで被害がありました。京都で死者が280人、負傷者が1300人でした。愛宕山付近が震央で、地震の規模はM6.5と推定されています。

美濃西部の地震(1833年)

西暦1833年5月27日(天保4年4月9日)に美濃西部で発生した地震です。大垣北方の村々で山崩れが多くあり、死者は11人でした。余震が多く8月まで続きました。震源は根尾谷断層付近で、地震の規模はM6.3と推定されています。

出羽沖地震(1833年)

西暦1833年12月7日(天保4年10月26日)に羽前、羽後、越後、佐渡に被害をもたらした地震です。庄内地方で特に被害が大きく、家屋の倒壊が475軒で、死者が46人でした。また、津波が本庄から新潟に至る海岸と佐渡を襲い、能登で大破流出した家屋が約345軒で、死者が約100人でした。北海道にも地震の約30分後に津波が襲来(約120cm)し、、函館湾内は約2㎞にわたり潮が引いた後、道路まで潮が上がりました。地震の規模はM7.7と推定されています。

石狩地震(1834年)

西暦1834年2月9日(天保5年1月1日)に石狩(北海道)で発生した地震です。天保5年元旦の午前10時頃に起り、地面が割れて泥が吹き出しました。余震は2月22日まで毎日続き、1月14日には最大余震が発生しました。石狩から小樽にかけて多くの建物が倒壊しましたが、死傷者は出ませんでした。住家全壊は23棟です。札幌市内で大規模な墳砂の跡が確認されたことから、札幌市内に震源を持つ直下型地震であったと推定されています。地震の規模はM6.4と推定されています。

宮城県沖地震(1835年)

西暦1835年7月20日(天保6年6月25日)に宮城県沖で発生した地震です。仙台城の石垣が崩れ、藩内で家や土蔵が破損しました。また、登米、本吉、桃生郡方面で家屋や土蔵が被害を受けました。地震の規模はM7.0と推定されています。

厚岸の地震(1839年)

西暦1839年5月1日(天保10年3月18日)に厚岸(北海道)で発生した地震です。国泰寺門前の石灯籠が大破し、戸障子が破損しました。地震の規模はM7.0と推定されています。

駿河の地震(1841年)

西暦1841年4月22日(天保12年3月2日)に駿河で発生した地震です。駿府城の石垣が三十間(約54m)崩れ、久能山東照宮の堂や門などが破損しました。内陸地震で、地震の規模はM6.3と推定されています。

宇和島の地震(1841年)

西暦1841年11月3日(天保12年9月20日)に宇和島に被害をもたらした地震です。宇和島城の塀や壁などが破損しました。地震の規模はM6.0と推定されています。

天保の根室釧路沖地震(1843年)

西暦1843年4月25日(天保14年3月26日)に発生した根室釧路沖地震です。厚岸国泰寺で石灯籠や石仏等が倒壊・飛散し、庭の所々で12~15cmの地割れを生じました。松前や津軽でも揺れを強く感じ、江戸でも揺れを記録しました。厚岸や野付では震度5強に相当する揺れがあったと推定されています。

また、津波が厚岸の村落を呑み込み、「大海のようになった」とも言われており、対岸の番屋や家屋が全部流失しました。津波の高さは4~5mと推定されています。さらに、花咲で7.1m、浜中町幌戸で5.2mの浸水高だった推定されています。津波の来襲によりアイヌ人34人が流死し、ポロトでも11人が流死しました。地震の規模はM8.0と推定されています。

弘化の善光寺地震(1847年)

西暦1847年5月8日(弘化4年3月24日)に信濃北部および越後西部に被害をもたらした地震です。
長野市浅川地区を震源とする長野盆地西縁の活断層による内陸直下型地震と言われています。東北地方から近畿地方にかけて揺れの記録があり、高田から松本に至る地域で被害がありました。松代領で家屋の倒壊が9550軒で死者が2695人、飯山領で家屋の倒壊が1977軒で死者が586人、善光寺領で家屋の倒壊が2285軒で死者が2486人でした。特にこの年は善光寺の御開帳とも重なったことから、善光寺門前に宿泊していた参拝客も多数犠牲になり(参拝者で生き残ったのは約1割)、死者は10000人前後と言われています。

山崩れも多く発生し、松代領では4万ヶ所以上の山崩れがありました。特に、虚空蔵山が崩れて犀川をせき止め、上流は湖となりましたが、4月13日に決壊して流出家屋が810軒、流死100余人の被害となりました。地震の規模はM7.4と推定されています。

越後の地震(1847年)

西暦1847年5月13日(弘化4年3月29日)に発生した高田平野東縁断層を震源とする上記の善光寺地震の余震で、越後頸城郡に被害をもたらしました。善光寺地震による被害と区別できないところが多いですが、家屋の倒壊や死傷がありました。また、地割れを生じ、泥を噴出し、田畑が埋没したところもありました。地震の規模はM6.5と推定されています。

まとめ

この記事をまとめます。

  • 出羽沖地震、天保の根室釧路沖地震では津波による被害が発生しました
  • 享和の佐渡小木地震、文化の象潟きさかた地震では大規模な隆起がありました。特に象潟地震では隆起により象潟湖の大部分が陸地化しました
  • 弘化の善光寺地震では死者が約10000人の大きな被害がありました。また山崩れにより川が堰き止められ、その後決壊することにより二次被害も発生しました

この記事は下記を参考にして作成しました。

宇津徳治,2004,世界の被害地震の表(古代から2002年まで),宇津徳治先生を偲ぶ会,東京,電子ファイル最終版.
東京大学地震研究所 応用地震学研究室ホームページ
地震本部ホームページ
内閣府 防災情報のページ
東京大学地震研究所 研究ハイライト
歴史地震研究会ホームページ
産総研地質調査総合センターホームページ
弥彦村役場ホームページ
石狩市ホームページ

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