過去に発生した地震(10) 明治時代

過去に発生した地震(10) 『明治時代』 自然災害に備えるブログ Ready Japan 地震
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この記事は下記の方にお勧めです。

・過去に発生した地震について知りたい方
・歴史に興味がある方

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はじめに

太古から地震が発生していたことを疑う人はいないのではないでしょうか。地層を調べることにより、断層や津波の痕跡から、おおよその地震発生の年代を知ることがあります。

しかし、いつ、どこで発生したのかをある程度の確度で知ることができるのは文字情報、つまり、古文書が現れてからのことです。日本では、西暦416年(允恭5年)の遠飛鳥宮とおつあすかのみや付近で発生した地震が文字情報のある最古の地震と言われています。

この記事では、明治時代(1868年〜1912年)に日本で発生した主な地震についてまとめます。

明治元年〜明治20年

浜田地震(1872年)

西暦1872年3月14日(明治5年2月6日)に石見や出雲に被害をもたらした地震です。明治になって初めての大地震で、浜田市沖を震源とし、死者551人、負傷者582人、家屋全壊4506棟、家屋焼失230棟の被害がありました。海岸沿いに数尺の隆起や沈降がみられ、国分海岸の土地の隆起により国の天然記念物でもある石見畳ヶ浦ができました。また、小津波もありました。地震の規模はM7.0〜M7.2で最大震度は7程度と推定されています。

横浜地震(1880年)

西暦1880年(明治13年)2月22日に横浜や東京に被害をもたらした地震です。横浜に建てられていた洋風建築で煙突の破損や家屋の壁の剥落や、墓石の転倒などの被害がありました。この地震を契機に、当時来日していたイギリスの鉱山技師ジョン・ミルンにより世界初の地震学会が日本に創設されました。なお、アメリカの地震学会の創設は1911年でした。震源地は東京湾の中部で、地震の規模はM5.5~6.0程度と推定されています。

北海道東方沖(1881年)

西暦1881年(明治14年)10月25日に北海道東方沖で発生した地震です。国後島泊湊で板蔵などが倒れ、または大破し、津軽でも強く揺れを感じました。地震の規模はM7.0程度と推定されています。

明治21年〜明治30年

金峰山地震(1889年)

西暦1889年(明治22年)7月28日に熊本県西部に被害をもたらした地震です。熊本市付近で被害が大きく、余震による被害を含めると死者20人、負傷者54人、住家全壊239棟でした。また、熊本城において崩落した石垣は42ヶ所、膨らみが生じた石垣は20ヶ所あり、これらは面積にして8,842㎡に及びました。地震の規模はM6.3程度と推定されています。

濃尾地震(1891年)

西暦1891年(明治24年)10月28日に美濃や尾張に大きな被害をもたらした地震です。震源地は本巣郡根尾谷(現本巣市根尾)で、地震の規模はM8.0で世界でも最大級の内陸直下型地震でした。地震の及んだ範囲は九州全土から東北地方にまで達し、激震地域は岐阜県の美濃地方を中心に、愛知県尾張地方、滋賀県東部、福井県南部に及びました。一方、飛騨、郡上、恵那郡ではほとんど被害がありませんでした。

10月31日までの4日間に、烈震4回、強震40回、弱震660回、微震1回、鳴動15回の合計720回の地震があり、その後も余震は絶えませんでした。

死者は全国で7273人、全壊・焼失家屋142,000軒、半壊80000軒、山崩れ1万ヶ所という大きな被害でした。根尾谷を通る大断層が生じ、水鳥(本巣市)で上下に6m、水平に2mずれました。

能登地震(1892年)

西暦1892年(明治25年)12月9日と11日に能登半島に被害をもたらした地震です。羽咋郡高浜町と火打谷村で家屋の破損があり、堀松村末吉で、死者1人、負傷者5人、家屋全壊2棟の被害がありました。また、弱い津波もありました。地震の規模はM6.4程度と推定されています。

色丹島沖地震(1893年)

西暦1893年(明治26年)6月4日に色丹島沖で発生した地震です。根室、厚岸、色丹島では強震で、択捉島では岩石の崩壊がありました。津波の高さは色丹島で2~3m、択捉島で1.5mでした。地震の規模はM7.7程度と推定されています。

根室沖地震(1894年)

西暦1893年(明治26年)6月4日に根室沖で発生した地震です。根室や厚岸で家屋や土蔵などに被害があり、死者1人、負傷者6人、住家全壊12棟でした。また、北海道や東北を津波が襲い、津波の高さは宮古で4.0m、大船渡で1.5mでした。地震の規模はM7.9程度と推定されています。最大震度は根室と釧路で5でした。

明治東京地震(1894年)

西暦1894年(明治27年)6月20日に東京湾岸を中心に被害をもたらした地震です。青森から中国・四国地方まで地震を感じられ、東京と横浜に大きな被害がありました。神田、本所、深川で全半壊が多く、東京で死者24人、川崎と横浜で死者7人でした。鎌倉や浦和方面にも被害がありました。震源は現在の江東区の直下の深さ40kmから60kmで、地震の規模はM7.0程度と推定されています。また、東京湾沿いの特に下町低地で震度6相当の揺れがあったと推定されています。

庄内地震(1894年)

西暦1894年(明治27年)10月22日に庄内平野に集中して被害をもたらした地震です。酒田付近を中心に被害が大きく、死者726人、負傷者1060人、住家全壊3858棟、家屋焼失2148棟でした。庄内平野東縁断層帯によるものと考えられています。地震の規模はM7.0程度と推定されています。

霞ヶ浦付近の地震(1895年)

西暦1895年(明治28年)1月18日に茨城県南部に被害をもたらした地震です。鹿島、水戸、那珂、新治、行方などで被害があり、圧死者6人、負傷者34人、家屋全壊37棟でした。地震の規模はM7.2程度と推定されています。

明治三陸地震(1896年)

西暦1896年(明治29年)6月15日に太平洋岸に大きな津波による被害をもたらした地震です。地震の揺れによる被害はないものの、津波が北海道から牡鹿半島に至る海岸を襲い、死者総数は21959人(青森343人、岩手18158人、宮城3452人、北海道6人)、家屋の流失や全半壊が8〜9千、船の被害約7千艘でした。津波の高さは吉浜で24.4m、綾里で38.2m、田老で14.6mで、ハワイやカリフォルニアにも達しました。津波そのものが大きかったのに加えて、地震動が小さかったことから被害が拡大したと言われています。地震の規模はM8.2程度と推定されています。また、6月16日に最大余震がありました(M7.5の地震が2回)。

陸羽地震(1896年)

西暦1896年(明治29年)8月31日に秋田県に大きな被害をもたらした地震です。秋田県の仙北郡と平鹿郡、岩手県の西和賀郡と稗貫郡で被害が大きく、両県で死者が209人(秋田県で205人)、家屋の全壊が5792軒(秋田県で5682軒)でした。秋田と岩手県境の奥羽山脈を震源とし、地震の規模はM7.2で、最大震度は7と推定されています。この地震により千屋断層と川舟断層が生じました。

宮城県沖地震(1897年2月)

西暦1897年(明治30年)2月20日に宮城県沖で発生した地震です。岩手・山形・宮城・福島で小規模の被害があり、一関では家屋の大破が60棟、小破が12棟、土蔵の破損が127棟、煙突破損が6などありました。地震の規模はM7.4程度と推定されています。

宮城県沖地震(1897年8月)

西暦1897年(明治30年)8月5日に宮城県沖で発生した地震です。揺れによる被害はありませんでしたが、小津波が釜石から雄勝あたりまで襲いました。釜石で波高4尺(1.2m)、北上川河口で1~2尺(0.3~0.6m)、盛では約1丈(約3m)でした。家屋や耕地の浸水、堤防の決壊などの被害がありました。地震の規模はM7.7程度と推定されています。

明治31年〜明治40年

宮城県沖地震(1898年)

西暦1898年(明治31年)4月23日に宮城県沖で発生した地震です。北海道の南半分から近畿まで揺れを感じました。岩手県沿岸に小被害があり、宮城県では石巻で土蔵壁に亀裂が入りました。金華山で家屋の屋根、屋壁、煙突に被害があり、亘理でも小被害がありました。また、小津波もありました。地震の規模はM7.2程度と推定されています。

紀伊大和地震(1899年)

西暦1899年(明治32年)3月7日に紀伊半島南東部で発生した地震です。奈良県吉野郡と三重県南牟婁郡で被害が大きく、木ノ本と尾鷲で死者7人、家屋の全壊35軒、山崩れが多数ありました。深さ40〜50kmのフィリピン海プレート内の地震で、地震の規模はM7.0程度と推定されています。

宮城県北部の地震(1900年)

西暦1900年(明治33年)5月12日に宮城県北部で発生した地震です。遠田郡で被害が大きく最、死者13人、負傷者4人、家屋全壊44棟、半壊48棟、破損1474棟でした。地震の規模はM7.0程度と推定されています。

三宅島近海の地震(1900年)

西暦1900 年(明治33年)11月5日に三宅島近海で発生した地震です。御蔵島と三宅島で海岸の崩壊などがあり、神津島では家屋の全壊が2軒、半壊が3軒ありました。地震の規模はM6.6程度と推定されています。

青森県東方沖の地震(1901年)

西暦1901年(明治34年)8月9日と10日に八戸地方に被害をもたらした地震です。八戸から青森にかけて津波を含めて被害があり、死傷者が18人、住家の全壊が8棟ありましたまた、宮古近海で高さ約0.6mの小津波が7〜8回来襲しました。地震の規模は9日がM7.2程度、10日がM7.4程度と推定されています。

青森県東部の地震(1902年)

西暦1902年(明治35年)1月30日に青森県東部に被害をもたらした地震です。三戸、七戸、八戸などで死者が1人、家屋の倒壊が3軒ありました。地震の規模はM7.0程度と推定されています。

芸予地震(1905年)

西暦1905年(明治38年)6月2日に安芸灘で発生した地震です。広島市、呉市、松山市周辺の埋立地の建物への被害が大きく、広島県で死者が11人、負傷者が160人、家屋の全壊が56棟、愛媛県で家屋の全壊が8棟ありました。震度は広島県と愛媛県で5~6相当だったと推定されています。

明治41年〜明治45年

房総半島沖地震(1909年)

西暦1909年(明治42年)3月13日に房総半島南東沖で発生した地震です。8時19分にM6.7程度、23時29分にM7.5程度の地震がありました。横浜で煙突の倒壊、煉瓦壁の崩壊、瓦の墜落、水道管の破損などがあり、負傷者が3人でした。

姉川地震(1909年)

西暦1909年(明治42年)8月14日に琵琶湖東北岸付近を中心に被害をもたらした地震です。虎姫付近で被害が大きく、滋賀県と岐阜県で死者が41人、住家の全壊が978棟ありました。また、姉川河口の琵琶湖湖底が数十m深くなったと言われています。地震の規模はM6.8程度と推定されています。

沖縄本島近海地震(1909年)

西暦1909年(明治42年)8月29日に那覇や首里に被害をもたらした地震です。死者2人、負傷者13人、家屋の全半壊が106棟発生しました。地震の規模はM6.2程度と推定されています。

宮崎県西部の地震(1909年)

西暦1909年(明治42年)11月10日に宮崎県西部で発生した地震です。宮崎市などで被害があり、東臼杵郡で家屋の全壊が2棟ありました。地震の規模はM7.6程度と推定されています。

奄美大島沖地震(1912年)

西暦1911年(明治44年)6月15日に奄美大島付近で発生した地震です。喜界島、奄美大島、徳之島、沖縄島などで被害があり、喜界島では死者1人、負傷者9人、住家の全壊が401棟、半壊が533棟ありました。全体では死者が12人、家屋の全壊が422棟でした。この地域最大の地震で有感域は中部日本に及びました。地震の規模はM8.0程度と推定されています。

まとめ

この記事をまとめます。

  • 明治時代にも地震や津波による大きな被害が発生しました
  • 浜田地震、濃尾地震、庄内地震、陸羽地震では揺れにより多くの犠牲者が出ました。特に濃尾地震は7273人の死者がありました
  • 津波を伴う地震も多くあり、特に明治三陸地震では死者が21959人と非常に大きな被害になりました
  • 横浜地震を契機に世界で初めての地震学会が創設されました

この記事は下記を参考にして作成しました。

宇津徳治,2004,世界の被害地震の表(古代から2002年まで),宇津徳治先生を偲ぶ会,東京,電子ファイル最終版.
東京大学地震研究所 応用地震学研究室ホームページ
地震本部ホームページ
一般社団法人災害防止研究所ホームページ
熊本市ホームページ
岐阜県ホームページ
仙台管区気象台ホームページ
名瀬測候所ホームページ

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