過去に発生した地震(3) 室町時代〜安土桃山時代

過去に発生した地震(3) 『室町時代〜安土桃山時代』 自然災害に備えるブログ Ready Japan 地震
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この記事は下記の方にお勧めです。

・過去に発生した地震について知りたい方
・歴史に興味がある方

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はじめに

太古から地震が発生していたことを疑う人はいないのではないでしょうか。地層を調べることにより、断層や津波の痕跡から、おおよその地震発生の年代を知ることがあります。

しかし、いつ、どこで発生したのかをある程度の確度で知ることができるのは文字情報、つまり、古文書が現れてからのことです。日本では、西暦416年(允恭5年)の遠飛鳥宮とおつあすかのみや付近で発生した地震が文字情報のある最古の地震と言われています。

この記事では、室町時代と安土桃山時代に日本で発生した主な地震についてまとめます。

室町時代

京都の地震(1350年)

西暦1350年7月6日(正平5年5月23日)に京都で発生した地震です。京都の祇園社の石塔の九輪が落ちて砕け、余震が7月初旬まで続いたとの記録があります。

紀伊・摂津地震(1360年)

西暦1360年11月21,22日(正平15年10月4,5日)に発生し、津波が熊野尾鷲から摂津兵庫まで来襲したと言われている大地震です。地震の存在そのものを疑う説が有力です。

正平(康安)東海地震(1361年)

西暦1361年8月1日(正平16年6月22日)に発生した地震で畿内諸国に被害をもたらしました。次項の地震の前震とも言われていますが、熊野灘以東を震源地とする大地震で東海地震だったとも言われています。

正平(康安)南海地震(1361年)

西暦1361年8月3日(正平16年6月24日)に発生した地震で大阪の四天王寺の金堂や奈良の招提寺の九輪や薬師寺の金堂などの倒壊や破損などが起こり、摂津、土佐、阿波に津波による大きな被害をもたらしました。南海トラフで発生したM8クラスの巨大地震と推定されています。

京都の地震(1369年)

西暦1369年9月7日(正平24年7月28日)に発生した地震で、京都の東寺の講堂が傾いたとの記録があります。

応永地震(1408年)

西暦1408年1月21日(応永14年12月14日)に発生した地震で、「熊野年代記」に熊野本宮にある本宮ノ湯の湧出が80日間停止したとあります。また、「続本朝通鑑」には鎌倉で地震津波があったと記されています。一方、これらは信憑性が低く、京都が震源だったとの説もあります。

京都の地震(1425年)

西暦1425年12月23日(応永32年11月5日)に発生した地震で、京都で 築垣などが多く崩れ他との記録があります。地震の規模はM6程度と推定されています。

伊勢・京都の地震(1433年)

西暦1433年2月23日(永享5年1月24日)に発生した地震で、京都や伊勢で大きく揺れました。「満済准后日記(まんさいじゅごうにっき)」に「鈴鹿山の大きな石が抜け落ちた」との記述があります。

相模の地震(1433年)

西暦1433年11月6日(永享5年9月16日)に発生した地震です。神奈川県の鎌倉や大山で被害が発生し、余震が多くありました。利根川の水が逆流し、津波が発生した可能性もあります。地震の規模はM7以上と推定されています。

山城・大和の地震(1449年)

西暦1449年5月13日(文安6年4月12日)に発生した地震です。洛中の堂塔や築地に被害が多く、東山や西山の所々で地割れがあり、山崩れで人馬の死が多数あり、淀大橋と桂橋が落ちたとの記録があります。余震は7月まで続いたようです。地震の規模はM6.1程度と推定されています。

奥州の地震(1454年)

西暦1454年12月22日(享徳3年11月24日)に発生した地震です。「王代記」に「(享徳)三
年甲戌十一月廿三日夜半天地震動、奥州ニ津浪打テ百里山ノ奥ニ入テ人多海ニ入テ死」との記述があり、津波が山の奥まで入り多くの人々が海に引き込まれて亡くなったことがわかります。
享徳3年12月10日には鎌倉で余震とみられる大地震があったとの記録もあります(鎌倉大日記)。

王代記
山梨県の普賢寺(現在廃寺)に伝わっていた書物。同寺の住職等が代々受け継いで書かかれた一種の年代記。

大和の地震(1494年)

西暦1494年6月19日(明応3年5月7日)に発生した大和国に被害をもたらした地震です。諸寺や矢田庄(大和郡山の西)の民家が多く破損し、余震は翌年に及びました。地震の規模はM6程度と推定されています。

鎌倉の地震(1495年)

西暦1495年9月12日(明応4年8月15日)に発生した地震です。鎌倉付近を津波が襲い、鎌倉大仏殿に達したとされ、溺死者が200人という記録がありますが、当時大仏殿がなかった可能性があり、他の地震との混同しているのかもしれません。

日向灘地震(1498年)

西暦1498年7月9日(明応7年6月11日)に発生した地震です。「九州軍記」に九州で山崩れがあり、別府の延内寺では爆発が発生し、寺院が住職もろとも吹き飛んで、地が裂けて熱泥が噴出し、現在の坊主地獄ができたという記録があります。しかし、この資料の信憑性は低いと言われています。一方、同日に畿内や東海地方でも地震があったことから、同一の地震であれば大規模な地震であったであろうことが指摘されています。地震の規模はM7.5程度と推定されています。

明応東海地震(1498年)

西暦1498年9月20日(明応7年8月25日)に発生した南海トラフ地震です。震源域は高知県中部沖から駿河湾までの広い範囲と考えられています。紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で揺れが大きく、熊野本宮の社殿の倒壊したり、遠江では山崩れや地割れが発生しました。津波が紀伊から房総の海岸を襲い、伊勢大湊で家屋流失1千戸、死者5千名、伊勢志摩で死者1万名、静岡県志太郡で死者2万6千名と言われています。また、沼津市戸田では津波が海抜36メートルを超える地点まで達していた可能性があることが調査でわかっています。さらに、淡水湖だった浜名湖の南岸が津波によって切れて、湖が遠州灘とつながり、今切ができたと言われています。地震の規模はM8.2〜M8.4と推定されています。

越後南西部地震(1502年)

西暦1502年1月28日(文亀元年12月10日)に越後国で発生した地震です。越後の国府(現在の直江津市)で家屋の倒壊や死者が多数発生しました。また、会津でも強い揺れがありました。さらに、この地震によって、真那板山の西側斜面が幅1200mに渡って崩壊し、姫川を堰き止め河道閉塞を形成されたと推定されています。地震の規模はM6.5〜M7.0と推定されています。

摂津・河内の地震(1510年)

西暦1510年9月21日(永正7年8月8日)に大阪で発生した地震です。摂津や河内の諸寺の被害や死者が発生し、余震が70余日続きました。また、八尾市の常光寺の勧進帳に「去る永正七年八月上旬のとき、大地震により常光寺の堂社がことごとく壊れた。」との記録が残っており、大きな地震であったことがわかります。地震の規模はM6.5〜M7.0と推定されています。

越後の地震(1517年)

西暦1517年7月18日(永正14年6月20日)に越後国で発生した地震です。倒家が多かったようですが、史料が少なく詳細は不明です。

紀伊・京都の地震(1520年)

西暦1520年4月4日(永正17年3月7日)に紀伊や京都に被害をもたらした地震です。那智の寺院の破壊、津波の発生、京都で禁中の築地所々破損などの被害が発生しました。暴風雨と高潮による被害だった可能性もあるようです。地震の規模はM7.0 – M7+3⁄4 と推定されています。

安土桃山時代

摂津の地震(1579年)

西暦1579年2月25日(天正7年1月20日)に摂津国に被害をもたらした地震です。四天王寺の鳥居が崩れ、余震が3日間続いたとされています。地震の規模はM6.0程度と推定されています。

天正地震(1586年)

西暦1586年1月18日(天正13年11月29日)に近畿から中部に被害をもたらした内陸の大地震で、阿寺断層、庄川断層、養老・桑名・四日市断層などが連動して起きたと考えられています。各地で下記のような被害が発生しました。

越中:山崩れにより庄川が約20日にわたってせき止められた。砺波(となみ)郡木船城が崩壊陥没し、城主前田秀継夫妻が死亡。

飛騨:大規模な山崩れにより白川村の帰雲城及び城下が埋没し、城主内ケ島氏以下領民全員が死亡した。下呂市の威徳寺七堂伽藍が倒壊焼失した。

美濃:大垣城が全壊焼失し、白鳥の長滝寺三重塔が大破した。

三河:岡崎城が大破した。

尾張:甚目寺の法性寺や一宮真清田神社などが倒壊した。

伊勢:長島城が全壊した。泥土化、湧没が多数発生した。宇治山田外宮が破損した。

近江:長浜城が全壊し、城主山内一豊の息女が死亡した。

京都:三十三間堂の仏像が倒れた。八坂神社の拝殿や鳥居が破損した。壬生地蔵堂が倒壊した。

大和:多門院築垣が倒れた。

上記以外にも、加賀、越前、若狭、摂津、紀伊などでも被害が発生したと言われています。地震の規模はM7.9あるいはM8.0〜M8.1で、内陸地震としては1891年(明治24年)10月28日の濃尾地震(M8.0)を上回る規模だった可能性もあります。

駿河・遠江の地震(1589年)

西暦1589年3月21日(天正17年2月5日)に静岡県で発生した地震です。駿河・遠江両国の多数の民家や、興国寺・長久保・沼津の城の塀などが破損しました。地震の規模はM6.7程度と推定されています。

慶長豊後・伊予地震(1596年)

西暦1596年9月1日(文禄5年7月9日)に豊後国(大分県)と伊予国(愛媛県)に被害をもたらした地震です。別府湾沿岸を大きな津波が襲い、多くの被害が出ました。また、この津波で別府湾内にあった「瓜生島」が沈んだという言い伝えが残っていますが、島の存在そのものについては証拠が見つかっていません。伊予国でも寺社倒壊といった被害が発生しました。別府湾(日出生断層帯)を震源とする地震で、地震の規模はM7程度と推定されています。なお、文禄5年7月12日に発生したという記録もあります。

慶長伏見地震(1596年)

西暦1596年9月5日(文禄5年7月13日)に畿内を震源とする内陸直下型地震です。伏見城の天守閣や石垣が崩壊して500人以上が圧死するなど、京都全体で45,000人の死者が出たとも伝えられています。奈良、大阪、神戸でも被害が多く、堺では約600人の死者が出ました。余震は翌年4月まで続きました。地震の規模はM7.5程度で、中央構造線断層帯や有馬・高槻構造線が動いた可能性があると言われています。

まとめ

この記事をまとめます。

  • 政治の中心が京都に戻ったため、京都周辺の地震の記録が多くなっています
  • 正平(康安)東海地震、正平(康安)南海地震、明応東海地震といった南海トラフ地震が発生しました
  • 天正地震、慶長伏見地震といった内陸直下型地震が城の崩壊や多数の死者を出すなど大きな被害を与えました

この記事は下記を参考にして作成しました。

防災システム研究所公式ホームページ
宇津徳治,2004,世界の被害地震の表(古代から2002年まで),宇津徳治先生を偲ぶ会,東京,電子ファイル最終版.
東京大学地震研究所 応用地震学研究室ホームページ
地震本部ホームページ
日本地質学会ホームページ
八尾市ホームページ
岐阜県ホームページ

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